吉田松陰亡き後、久坂玄瑞や高杉晋作らの門人たちが、
松下村塾に集まり、松陰の遺文を会読することとしたが、
それとは別に会講日を定めて研究したのが、
『孟子』と『伝習録』だと言われます。
今日は、この2冊の共通点ついて書いてみます。
良知と『孟子』について書いた王陽明の言葉を引用します。
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「良知とは、孟子が〈是非の心は人がみな持っているものだ〉というところの〈是非の心〉のことです。この是非の心は、考えなくても知ることができ、学ばなくても自然にできるものであり、だからこそ良知というのです。」
「善い思いが起こったとき、私たちの心の良知はこれを知り、善くない思いが起こったとき、私たちの心の良知はこれを知ります。しかも、それは他人がそのことを知ることができません。私たちの心の中だけのことです。」
「今、善悪を区別して、思い(意)を誠にすることを望むのでしたら、ただこの良知の判断力を発揮するしかないのです。というのも、意念、つまり何らかの思いが生じたとして、私たちの心の良知が、すでにその思いが善であることを知ったにもかかわらず、その善い思いを心から好むことをしないで、誠の心にそむいて善い思いを放り出してしまうことがあるとすれば、これは善を悪とするものであって、自分から善を知った良知を曇らせることになるのです。」
(いずれも、『志士の流儀』209~210頁)
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他人の前では善いところを見せていても、
見ていないところでは善くないとわかっていることをすることもできます。
しかし、自分の心の中の是非の心はそれを知っています。
その良知の声を無視し続けると、良知が曇る、
つまりその声が聞こえなくなるということです。
若しくは、私欲から出ている声を良知の声と聞き違えます。
良知を発揮するのは苦労が伴うこともあります。
しかし、努力と工夫が必要だから、
必然的に心を鍛えることに繋がります。
心を鍛えれば、大変なことは確実に減るでしょう。
同じことをしても、楽に感じる人とそうでない人がいる訳ですから。
そして、気づいたら同時にやっている、
つまり、良知が自然と発揮されて行動になっている、
知行合一並進という状態になります。
こうした状態を目指して勉強会を続けています。
<つづく>
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