2015年1月20日火曜日

なぜ陽明学の勉強会をやっているのか④~『伝習録』を読む

本日は「陽明学研究会 姚江の会・群馬」の月一回の勉強会でした。

今日は、勉強会で何をやっているのかについてお話しさせてください。

毎月、第3火曜日の16時から18時半まで、
高崎神社社務所をお借りして開催しております。

まずは林田明大先生から、30分ほど、
書籍のご紹介やそれに関するお話を頂きます。

続いて、各人の準備して来た感想文の発表になります。
ひとりの持ち時間は3分で、
読後感・感動、共感した点・分からなかった点・意見を述べます。

現在は、陽明学のバイブルと言われる『伝習録』の完読を目指しております。


『伝習録』を読み始めて、今回で20回目でした。
「下巻」から読み始め、現在は「上巻」を読んでおります。

1回に進むページは、だいたい10ページ前後。

「ひと月でそれしか進まないの?」と思われるかもしれません。

しかし、ページ数は少ないですが、考えながら読むため、
じっくり時間をかけねばなりません。
繰り返し読まなければ、感想を書けないということもあります。
(なかなかの強敵です。笑)

感想文を発表し合った後は、グループディスカッションで、
各自の疑問点や感想について考え、話し合います。

それをまとめてグループ発表し、最後に先生にご解説いただく、
というのが一連の流れです。

参考までに、今回書いた感想文の一部です。

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 「人は、自己の心の本体を十全に発揮しさえすれば、すべてのはたらきはそのまま十全になる。…もしこの心というものが無視されてしまったら、たとえ世間の無数の文物・制度があらかじめ学びとられていたとしても、それらは自己と何のかかわりももたず、要するに装飾にすぎないのだから、いざという時に自分がどうしたらいいかは何もわからない。とはいえ、文物・制度を全く修めなくてもよいというのではない。ただことの先後がわかりさえすれば、道により近づけるということだ。」(85頁)

 「ひたすらこの心を保持して常に現在させること。それが学というものだ。過去・未来のことを思案して何のプラスがあるか。ただ心が放散するだけだ」(94頁)

私自身、頭でっかちで、いらない知識を求めながら血肉になっていなかった時期があっただけに、この文章には非常に共感できた。当時は「足」よりも「不足」に目が行っていたように感じる。今でも焦りや不安を感じることがあるが、これは目の前のことに集中せずに先を見る私欲から来るのだろう。

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同じ文章を読んでも、当然のことながら、まったく違う感想が出て来ます。
それを聞かせて頂くことも気づきが多く、学びが多くなります。

独学していた頃は一読して分かった気になっていました。
しかし、それは分かったということではなかったのだと実感しています。

以前、誰かが、
「行動が変わらなければ、読書は無意味だ」
というようなことを言っていたのを思い出しました。

これの意味が今は分かる気がします。

行動を変えなければならないというよりも、
心が変われば行動は自然と変わるということではないでしょうか。

繰り返し読み、繰り返し考え、繰り返し語り合うという作業は、
一見非効率そうですが、実は最も効果的なのではないかと、
この3年ほどを振り返って感じています。

<つづく>

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