2014年12月18日木曜日

「知っている」ということ③

さて、昨日は、自分の中にある「高次の自我」(シュタイナー)
とも言うべき良知の存在、そして、その声に耳を傾けてそれを発揮すること、
すなわち、実践すること=「致良知」(良知を致す)の話をした。

それを踏まえて、「知行合一」という言葉について考えてみたい。

この言葉は一般的に「言行一致」と同義であると解釈されているが、
本当にそうなのだろうか、という話だ。

昨日の話の振り返りをしてみる。

布団に入った後に、やるべきことを思い出す。
さて、出てやった方がいいか、そのまま寝るか、葛藤がある。

という話だ。

もはや思うことと行うことが完全に分離している。

良知が発揮された状態であれば、
本当にやるべきなら同時に立ち上がっている。

この状態が「知行合一」である。

別の例えで考えてみる。
中国の古典、「孟子」にこんなエピソードがある。

「赤子がまさに井戸に落ちんとするのを見たならば、誰でも走って行って、これを救おうとする。
これは自分が危うきを救ったという名誉を得たという考えではない。
これを機会に赤子の父母と交際を求めようという考えでもない。
また他人から救わなかったことを非難されるのを心配してからでもない。
つまりその真心が発して救ったのである。」

この場合、「真心」が発された状態が「致良知」と言える。

そして、知ったと同時に間髪入れずに行っている、
知ることと行うことが合一して並進している。
この状態が、知行合一である。

言行一致との違いを感じて頂けただろうか。

ただ、実際は、名誉を得たいとか、交際を求めようとか、非難されたくないとか、
そういった「私欲」が動機で動くこともあるだろう。
その場合、知ると行うの間に「私欲」があり、分断され並進していない。

まずは自分の中を眺めてみて、
知ると行うの間の心の動きを感じると面白い。
結構、葛藤があるものだ。

もし、この葛藤が無くなっていったら、
悩みの多くが減っていく気がするのは、
私だけではないと思う。

さて、どうすればよいか。
ヒントになれば幸いだ。

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