「整理・整頓・清掃を通じて経営改革と人材育成を支援する」専門のコンサルティング会社だ。
(同社HPより。)
先週の金曜日、同社の飯塚さんにご来社いただき、
トイレ掃除のデモンストレーションをして頂いた。
デモンストレーションと言っても、飯塚さんが掃除をするのではなく、
我々がご指導の下で、実際に掃除をする。
レクチャーから始まって、掃除の実践まで含めて2時間ほど。
あっという間だったが、目からうろこのことが多かった。
同社の支援には、以下のような特長があるということだ。
(同社HPより。)
①現場主義
②自立した人材の育成をお手伝い
③社長への支援が第一
③社長への支援が第一
④社風を良くするのが目的
⑤楽しくやる!
ほんの2時間だけでも、これらの一部を体感させて頂いた。
掃除が社風を作るという話は、様々な経営の本に載っているから、
「そんなこと知っているよ。」と言う方は多いだろう。
私も知っていた。ただし、知識としては。
しかし、本で知るのと実際に体験して知るのは大違いだ。
頭で分かっているというのは所詮この程度なのだと実感して、ちょっと笑えた。
ほんの2時間ほど一緒に掃除をしただけだが、
やる前と後では物の見え方が違うというのは、取り組んだスタッフ共通の意見だ。
自分でトイレ掃除をするとなると、各自、気づく範囲での掃除しかしない。
しかし、他の人と一緒に取り組むことで、自分一人で気付かないことが気付くようになるのだ。
しかも、徹底して掃除すると、トイレ以外の他の部分の汚れが気になりだす。
普段同じものを見ていても気づかなかったのに。
これが日常になれば、様々なことに気づくだろう。
しかし、習慣化しないと、いつの間にか元に戻ってしまう。
だから日々取り組むのだ。
こうした気づきは、陽明学の勉強に通ずる部分が多い。
日曜日には、高崎で毎月開催している「陽明学研究会 姚江の会・群馬」があった。
現在、陽明学のバイブルと言うべき『伝習録』を事前に読んで、感想文を書いて参加することになっている。
当日は、この文章を発表し合い、ディスカッションを行う。
今回の課題部分にこのような文章があった。
人は功夫につとめないと、いつの間にか自分はとっくにわかっているような気がして、学ぶしてもただ自分流にやっていけばよいと誰しも思ってしまうものだ。ところが実際は、私欲が日々に生じ、まるで地上の塵のように、一日掃わなければその分だけつもっていくということに、まるで気付いていない。しっかりと身を入れて功夫につとめたまえ。そうすれば、道には終極というものがなく、探究するほどにますます深くなるものだということがわかろう。いささかでも疑問があれば、とことんまでそれを究め、自己を明徹にしていかなければだめだ
(『伝習録』上巻65、溝口雄三訳)
心の中の塵も日々取り除く工夫をしないと積もってしまう。
所詮、見たいように物を見ているというのを、掃除を通じて感じさせて頂いた。
そうじの力様、ありがとうございました。
<追伸>
こうした話を書くと、自分は出来ているのかと問われるかもしれませんね。
正直申しまして、出来ておりません(笑)。
出来ていないと自覚しているから学ばせて頂いております。
<追伸>
こうした話を書くと、自分は出来ているのかと問われるかもしれませんね。
正直申しまして、出来ておりません(笑)。
出来ていないと自覚しているから学ばせて頂いております。
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