「花燃ゆ」の第3話を見ました。
その中で、吉田寅次郎が妹の文に言う、このような台詞がありました。
「知行合一という言葉がある。知識だけじゃ意味がない。行いが伴ってこそ、その知識は意味がある。」
(ネットからどなたかの絵を拝借しました。)
「知行合一」は陽明学の言葉の中で最も知られていますが、
「言行一致」と理解されているケースが多いように思います。
これはそもそも「知っている」ことと「行うこと」を二分しています。
いわば「先知後行」(認識は先、実践は後)。
これに対し、「思い」と「行動」はそもそも一体で分けられない、
というのが王陽明の考えです。
例えば、ゴミが落ちている。
あっ、ゴミだ、と思う。
その時にはすでに手が伸びている。
若しくは思わずとも手が伸びている。
そんな経験は誰にでもあるでしょう。
これに対し、
ゴミが落ちている。
拾うべきだけど、どうしよう。
恥ずかしいし。
そう思って拾う、または拾わない。
この2つの違いは、なんとなく分かって頂けるでしょうか。
日常の中で、例のように、
ゴミを認識して拾うまでの間の葛藤がなければ、
心は常にすっきりした状態だと思います。
しかし、ゴミを拾わなければならない、という知識が先行しまうと、
拾わない自分はダメだ、という思いと行動の分離が起こり、
その結果、自己否定につながることもあるでしょう。
私自身、「言行一致」が義務感になり、
こうした分離が自分を苦しめてきたという経験があります。
この葛藤がなくなれば、日々伸びやかに生活できる。
陽明学を学ばせて頂き、確実に体感してきたことです。
経営計画と会計とニッチ戦略で「ずっと黒字」にナビゲートする「ももとせマネジメント税理士法人」の代表社員小澤昌人が「ずっと黒字」につながる情報をお届します!
2015年1月31日土曜日
2015年1月29日木曜日
成果をあげる②
昨日のつづきです。
戦略マップを書くことよりも肝心なこと。
それは、当然のことながら、
行動計画まで落とし込み、実際に行動すること。
昨日書いた経営者の方も、
問題解決のための行動を書き出して、
今後、監査の際に話をしていくことにした。
行動しなければ、成果があがらない。
成果をあげると言えば、ドラッカーの言葉を思い出す。
ドラッカーは「成果をあげる能力は修得できる」と言う。
そして、成果をあげる8つの習慣について書いている。
(『経営者の条件』)
(1) なされるべきことを考える
(2) 組織のことを考える
(3) アクションプランをつくる
(4) 意思決定を行う
(5) コミュニケーションを行う
(6) 機会に焦点を合わせる
(7) 会議の生産性をあげる
(8) 「私は」でなく「われわれは」を考える
もうひとつおまけで、
聞け、話すな、を挙げている。
さらに、成果をあげるのは生まれつきの才能でなく、
習慣であるから、他の習慣と同様に身につけられるし、
身につけなければならないと書いている。
先日ブログに書いたように、自分自身、
やることがとっ散らかっているというのは、
まさになされるべきことに専念できていないということ。
なぜそうなるかと言ったら、
なされるべきことは考えなければならず、
したいことをする方が楽だから。
(人を見ているとよくわかるのだが、自分は見ようと思わないと見ない。)
限られた時間の中で成果をあげるには、
体だけでなく頭を動かして考える時間を日常に落とし込まないとならない。
先日のエントロピーの話にも書いたが、
今更ながら、成果をあげるのは習慣だと実感するようになった。
静かな日々を過ごすためにエネルギーを使うということか。
戦略マップを書くことよりも肝心なこと。
それは、当然のことながら、
行動計画まで落とし込み、実際に行動すること。
昨日書いた経営者の方も、
問題解決のための行動を書き出して、
今後、監査の際に話をしていくことにした。
行動しなければ、成果があがらない。
成果をあげると言えば、ドラッカーの言葉を思い出す。
ドラッカーは「成果をあげる能力は修得できる」と言う。
そして、成果をあげる8つの習慣について書いている。
(『経営者の条件』)
(1) なされるべきことを考える
(2) 組織のことを考える
(3) アクションプランをつくる
(4) 意思決定を行う
(5) コミュニケーションを行う
(6) 機会に焦点を合わせる
(7) 会議の生産性をあげる
(8) 「私は」でなく「われわれは」を考える
もうひとつおまけで、
聞け、話すな、を挙げている。
さらに、成果をあげるのは生まれつきの才能でなく、
習慣であるから、他の習慣と同様に身につけられるし、
身につけなければならないと書いている。
先日ブログに書いたように、自分自身、
やることがとっ散らかっているというのは、
まさになされるべきことに専念できていないということ。
なぜそうなるかと言ったら、
なされるべきことは考えなければならず、
したいことをする方が楽だから。
(人を見ているとよくわかるのだが、自分は見ようと思わないと見ない。)
限られた時間の中で成果をあげるには、
体だけでなく頭を動かして考える時間を日常に落とし込まないとならない。
先日のエントロピーの話にも書いたが、
今更ながら、成果をあげるのは習慣だと実感するようになった。
静かな日々を過ごすためにエネルギーを使うということか。
2015年1月28日水曜日
成果をあげる①
今日、ある経営者さんと話した。
その方と話していつも感じることは、素直だなということ。
自分の判断が常に正しいとは限らないということをわかっている。
日々、最前線の幹部の方からお客様の様子を聞いたりして、
商品・サービスづくりに活かしている。
創業3年目だが、独自の市場を作り出しているし、
「誰に」「何を」「どのように」もブレがなく、強みで集客できている。
同業他社は不調が多いだろうが、売上も順調だ。
(差別化できているから、「同業他社」とも言えないかもしれない。)
しかし、中長期的に見ると、社内のオペレーションに問題があるし、
その根源は社員の育成に問題がある。
そのことについて、戦略マップというツールを使って洗い出しをした。
戦略マップは、バランススコアカードという手法の一部に位置づけられるが、
経営を見える化するのに使いやすいので、よく使っている。
こんな感じ。↓
細かい表現は異なることもあるが、
おおよそ上から、
「財務の視点」
「顧客の視点」
「業務プロセスの視点」
「人材と変革の視点」
といった四つの枠からなる。
各要素を矢印で結ぶので、因果関係がわかりやすい。
昨日も面白い発見があった。
戦略マップは当然、自分でも書けるが、
誰かにファシリテーションしてもらう方とより良いと思う。
普段とは異なる視点で見られる。
しかし、肝心なのは書くことでない。
<つづく>
その方と話していつも感じることは、素直だなということ。
自分の判断が常に正しいとは限らないということをわかっている。
日々、最前線の幹部の方からお客様の様子を聞いたりして、
商品・サービスづくりに活かしている。
創業3年目だが、独自の市場を作り出しているし、
「誰に」「何を」「どのように」もブレがなく、強みで集客できている。
同業他社は不調が多いだろうが、売上も順調だ。
(差別化できているから、「同業他社」とも言えないかもしれない。)
しかし、中長期的に見ると、社内のオペレーションに問題があるし、
その根源は社員の育成に問題がある。
そのことについて、戦略マップというツールを使って洗い出しをした。
戦略マップは、バランススコアカードという手法の一部に位置づけられるが、
経営を見える化するのに使いやすいので、よく使っている。
こんな感じ。↓
細かい表現は異なることもあるが、
おおよそ上から、
「財務の視点」
「顧客の視点」
「業務プロセスの視点」
「人材と変革の視点」
といった四つの枠からなる。
各要素を矢印で結ぶので、因果関係がわかりやすい。
昨日も面白い発見があった。
戦略マップは当然、自分でも書けるが、
誰かにファシリテーションしてもらう方とより良いと思う。
普段とは異なる視点で見られる。
しかし、肝心なのは書くことでない。
<つづく>
2015年1月27日火曜日
因果
昨日書いたように、
毎年1月は過去に消し忘れた種火が大きくなる気がしていて、
その年のテーマを必然的に気づかされる。
昨年の正月は『法華経を読む』という本の中の、
「絶対肯定」という言葉が妙に記憶に残ったことを覚えている。
で、一年間終わってみたら、市場や顧客は常に合理的だとか、
環境をすべて受け入れることの大事さを感じた年だった気がする。
さてさて、今年はどうなることやら。
アインシュタインの有名な言葉にこんなものがある。
Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen
(常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。)
自分が自分にする質問には癖があったりする。
だから、本を読んだり、音楽を聴いたり、人と会ったりするのだが、
これも気を付けないと、居心地がいい方向からの問いになる。
先日、マインドマップインストラクター時代の友人から誘われて、
彼のセミナーに参加させて頂いた。
その時に、BE-DO-HAVE、つまり、
どうありたいか、何をしたいか、何が欲しいか、
について考えるワークがあった。
これを見た時、実はすごく違和感があった。
周囲の人を見ると、やりたいこととか欲しいものが出ていたのだけど、
自分はどうありたいかはあっても、欲しいものはパッと思いつかなかった。
で、頭に浮かんだものは、健康とか次の仕事が頂けるような信用のような、
長期的かつ目には見えないものだったりして。
結果を求めるのではなく、良き原因づくりのみに邁進する。
ある方から教わって、普段気に留めていることだ。
時には他人に質問してもらうのも、自分の現時点を確認できて面白い。
毎年1月は過去に消し忘れた種火が大きくなる気がしていて、
その年のテーマを必然的に気づかされる。
昨年の正月は『法華経を読む』という本の中の、
「絶対肯定」という言葉が妙に記憶に残ったことを覚えている。
で、一年間終わってみたら、市場や顧客は常に合理的だとか、
環境をすべて受け入れることの大事さを感じた年だった気がする。
さてさて、今年はどうなることやら。
アインシュタインの有名な言葉にこんなものがある。
Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen
(常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。)
自分が自分にする質問には癖があったりする。
だから、本を読んだり、音楽を聴いたり、人と会ったりするのだが、
これも気を付けないと、居心地がいい方向からの問いになる。
先日、マインドマップインストラクター時代の友人から誘われて、
彼のセミナーに参加させて頂いた。
その時に、BE-DO-HAVE、つまり、
どうありたいか、何をしたいか、何が欲しいか、
について考えるワークがあった。
これを見た時、実はすごく違和感があった。
周囲の人を見ると、やりたいこととか欲しいものが出ていたのだけど、
自分はどうありたいかはあっても、欲しいものはパッと思いつかなかった。
で、頭に浮かんだものは、健康とか次の仕事が頂けるような信用のような、
長期的かつ目には見えないものだったりして。
結果を求めるのではなく、良き原因づくりのみに邁進する。
ある方から教わって、普段気に留めていることだ。
時には他人に質問してもらうのも、自分の現時点を確認できて面白い。
2015年1月26日月曜日
最近考えていること~エントロピーについて
師走は考える間もなく過ぎていき、
睦月の半ばから立春にかけて、現在の問題を象徴するような事象が起こる、
というのが自分の今までのパターンだったりする。
(皆さんもそうなのだろうか。)
今日はこの数週間で感じたことを書いてみたい。
まずは、松岡正剛氏の「『松岡正剛の千夜千冊』1043夜」から引用。
----------
宇宙の全体や物質の基本的な運動が、大局的にはエントロピーの増大に向かっているのは知られている。どんな物質も放っておけば無秩序な状態に向かい、周囲の環境と区別がつかなくなっていく。熱い紅茶を放っておけばやがて紅茶は器と同じ温度になり、器とともに室温と同じになっていく。熱力学ではこれを熱死と言っている。熱死とは無秩序の頂点のことをいう。宙も紅茶も目的はひとつで、ひたすらこの熱死に向かっているわけだ。
----------
別に今まで手を抜いて生きて来たつもりもないが、
(とは言っても、胸を張ってしっかり生きて来たとは口が裂けても言えないけど。)
振り返ると、明確に意識して来なかったように感じるものがある。
それは「エントロピー」との付き合い方だ。
エントロピーの増大は物理学の大原則で、
簡単に言うと秩序から混沌に向かっていくという法則。
これまで様々なことを考えて取り組んできたことが、
どんどんとっ散らかっている気がしてきたのだ。
「仕舞う」とか「片を付ける」とかせずに進んでいると言うべきか。
いい会社はエネルギーの方向が良く、過剰さがなくて静かだと思う。
そんな話をさせて頂くことがあるのだが、自分自身はそれができていないと反省。
以下、再び引用。
----------
ところが地球上の生命が活動をしているときは、これとはまったく逆の現象がおこっているように見える。生命は生物体として熱力学の原理に抵抗するかのように秩序をつくり、これを維持させたり代謝させているのだから、無秩序すなわちエントロピーの増大を拒否しているようなのだ。
生物もやがては死ぬのだから、大きくいえば熱死を迎えていることになる。しかし、そこにいたるまでが尋常ではない。生命は個体としての生物活動をしているあいだ、ずっとエントロピー(無秩序さの度合)を減らし、なんとか秩序を維持しようとしているようなのである。これをいいかえれば、生命は負のエントロピーを食べているということになる。
----------
新年最初のお話の中で「投企」という言葉について書いて、
もやっとしたものに言葉を与えられたように感じたが、
何に向かって投企すべきかまでは落とし込めてなかった。
秩序に向かって「企み」を「投げる」。
今まで、エントロピーのことを知ってはいたのに走り続けてしまった。
しかし、自分の時間が有限だということに自覚的になると、
エネルギーの使い方に意識的になるものなのかもしれない。
もう少し早く動けば、ここまでとっ散らからずに済んだのにと思う。
だが、なんとか手綱を自分の手に取り戻したい。
睦月の半ばから立春にかけて、現在の問題を象徴するような事象が起こる、
というのが自分の今までのパターンだったりする。
(皆さんもそうなのだろうか。)
今日はこの数週間で感じたことを書いてみたい。
まずは、松岡正剛氏の「『松岡正剛の千夜千冊』1043夜」から引用。
----------
宇宙の全体や物質の基本的な運動が、大局的にはエントロピーの増大に向かっているのは知られている。どんな物質も放っておけば無秩序な状態に向かい、周囲の環境と区別がつかなくなっていく。熱い紅茶を放っておけばやがて紅茶は器と同じ温度になり、器とともに室温と同じになっていく。熱力学ではこれを熱死と言っている。熱死とは無秩序の頂点のことをいう。宙も紅茶も目的はひとつで、ひたすらこの熱死に向かっているわけだ。
----------
別に今まで手を抜いて生きて来たつもりもないが、
(とは言っても、胸を張ってしっかり生きて来たとは口が裂けても言えないけど。)
振り返ると、明確に意識して来なかったように感じるものがある。
それは「エントロピー」との付き合い方だ。
エントロピーの増大は物理学の大原則で、
簡単に言うと秩序から混沌に向かっていくという法則。
これまで様々なことを考えて取り組んできたことが、
どんどんとっ散らかっている気がしてきたのだ。
「仕舞う」とか「片を付ける」とかせずに進んでいると言うべきか。
いい会社はエネルギーの方向が良く、過剰さがなくて静かだと思う。
そんな話をさせて頂くことがあるのだが、自分自身はそれができていないと反省。
以下、再び引用。
----------
ところが地球上の生命が活動をしているときは、これとはまったく逆の現象がおこっているように見える。生命は生物体として熱力学の原理に抵抗するかのように秩序をつくり、これを維持させたり代謝させているのだから、無秩序すなわちエントロピーの増大を拒否しているようなのだ。
生物もやがては死ぬのだから、大きくいえば熱死を迎えていることになる。しかし、そこにいたるまでが尋常ではない。生命は個体としての生物活動をしているあいだ、ずっとエントロピー(無秩序さの度合)を減らし、なんとか秩序を維持しようとしているようなのである。これをいいかえれば、生命は負のエントロピーを食べているということになる。
----------
新年最初のお話の中で「投企」という言葉について書いて、
もやっとしたものに言葉を与えられたように感じたが、
何に向かって投企すべきかまでは落とし込めてなかった。
秩序に向かって「企み」を「投げる」。
今まで、エントロピーのことを知ってはいたのに走り続けてしまった。
しかし、自分の時間が有限だということに自覚的になると、
エネルギーの使い方に意識的になるものなのかもしれない。
もう少し早く動けば、ここまでとっ散らからずに済んだのにと思う。
だが、なんとか手綱を自分の手に取り戻したい。
2015年1月23日金曜日
なぜ陽明学の勉強会をやっているのか⑦~できないからやっている
さて、このお話は今日で最終回にさせて頂きます。
今日、税理士会からの派遣で、
税務署での確定申告無料相談に従事しました。
その会場でこんなことがありました。
ある60代と思われる女性が相談に来たのですが、
減価償却の部分がきちんと記載されていませんでした。
ここでは減価償却の説明は割愛させて頂きますが、
なかなか理解しづらい部分ではあります。
その女性は亡くなった夫から引き継いだこともあり、
計算の詳細は全く分からないとのことでした。
最初は普通に説明していたのですが、
何度も同じことを質問されたり、
「だから、そうじゃないって」ということが繰り返されるうちに、
私の心は波打ってきました。
イライラして、口調が変わってきたのが自分でもわかりました。
ここで良知が働く訳です。
おいおい、分からないから質問しているのだし、
理解してもらえないのはお前の説明のせいで、
わかるまで丁寧に教えるのが仕事だよ、と。
そこから我に返って、なんとか来年以降の道筋を伝えました。
仕事をしていても、日常生活の中でも、
こうした機会は多数あると思います。
しかし、良知の声に耳を澄ますことを意識しないと、
いつの間にか良知は曇り、感情に振り回されてしまいます。
逆に、良知を発揮するほど、
兆しを感じることができるようになる気がします。
私自身、この通りできていませんが、良知の存在は感じていますし、
「あとがき」にも書かせて頂いた通り、
良知は磨けば磨くほど光るもので、そこに完成はないからこそ、
仲間と一緒に学ばせて頂いています。
最初に、陽明学を勉強して何の役に立つのか、
という話をした気がしますが、仕事に役立つといった「副産物」はあると思います。
でも、これは目的ではなく、「副産物」だということは肝心ではないでしょうか。
最後にこんなエピソードを書いて、終わりにします。
「心学に入ります前は、何事につけても、いちいち為に、為にと、『為』をつけて考えたものでした。仕事に精を出すのは妻子を養う為である、信用を得たい為であるといったように、いつもこの『為』という言葉に縛られ、追っかけ廻されて、窮屈なせわしない思いばかりをしていました。ところが、心学の道に入ってからは、この『為』という曲者に捉われないで工夫修行をするようになりました。ただなんとなく勤めるばかり励むばかりです」
( 『真説「陽明学」入門』124頁 )
つまり、仕事に役に立つからやるのは私欲ですから、良知を曇らせる訳です。
今後も、ただやるという姿勢で心を正す会にしたいと思っています。
今日、税理士会からの派遣で、
税務署での確定申告無料相談に従事しました。
その会場でこんなことがありました。
ある60代と思われる女性が相談に来たのですが、
減価償却の部分がきちんと記載されていませんでした。
ここでは減価償却の説明は割愛させて頂きますが、
なかなか理解しづらい部分ではあります。
その女性は亡くなった夫から引き継いだこともあり、
計算の詳細は全く分からないとのことでした。
最初は普通に説明していたのですが、
何度も同じことを質問されたり、
「だから、そうじゃないって」ということが繰り返されるうちに、
私の心は波打ってきました。
イライラして、口調が変わってきたのが自分でもわかりました。
ここで良知が働く訳です。
おいおい、分からないから質問しているのだし、
理解してもらえないのはお前の説明のせいで、
わかるまで丁寧に教えるのが仕事だよ、と。
そこから我に返って、なんとか来年以降の道筋を伝えました。
仕事をしていても、日常生活の中でも、
こうした機会は多数あると思います。
しかし、良知の声に耳を澄ますことを意識しないと、
いつの間にか良知は曇り、感情に振り回されてしまいます。
逆に、良知を発揮するほど、
兆しを感じることができるようになる気がします。
私自身、この通りできていませんが、良知の存在は感じていますし、
「あとがき」にも書かせて頂いた通り、
良知は磨けば磨くほど光るもので、そこに完成はないからこそ、
仲間と一緒に学ばせて頂いています。
最初に、陽明学を勉強して何の役に立つのか、
という話をした気がしますが、仕事に役立つといった「副産物」はあると思います。
でも、これは目的ではなく、「副産物」だということは肝心ではないでしょうか。
最後にこんなエピソードを書いて、終わりにします。
「心学に入ります前は、何事につけても、いちいち為に、為にと、『為』をつけて考えたものでした。仕事に精を出すのは妻子を養う為である、信用を得たい為であるといったように、いつもこの『為』という言葉に縛られ、追っかけ廻されて、窮屈なせわしない思いばかりをしていました。ところが、心学の道に入ってからは、この『為』という曲者に捉われないで工夫修行をするようになりました。ただなんとなく勤めるばかり励むばかりです」
( 『真説「陽明学」入門』124頁 )
つまり、仕事に役に立つからやるのは私欲ですから、良知を曇らせる訳です。
今後も、ただやるという姿勢で心を正す会にしたいと思っています。
2015年1月22日木曜日
なぜ陽明学の勉強会をやっているのか⑥~松下村塾と『伝習録』
吉田松陰亡き後、久坂玄瑞や高杉晋作らの門人たちが、
松下村塾に集まり、松陰の遺文を会読することとしたが、
それとは別に会講日を定めて研究したのが、
『孟子』と『伝習録』だと言われます。
今日は、この2冊の共通点ついて書いてみます。
良知と『孟子』について書いた王陽明の言葉を引用します。
----------
「良知とは、孟子が〈是非の心は人がみな持っているものだ〉というところの〈是非の心〉のことです。この是非の心は、考えなくても知ることができ、学ばなくても自然にできるものであり、だからこそ良知というのです。」
「善い思いが起こったとき、私たちの心の良知はこれを知り、善くない思いが起こったとき、私たちの心の良知はこれを知ります。しかも、それは他人がそのことを知ることができません。私たちの心の中だけのことです。」
「今、善悪を区別して、思い(意)を誠にすることを望むのでしたら、ただこの良知の判断力を発揮するしかないのです。というのも、意念、つまり何らかの思いが生じたとして、私たちの心の良知が、すでにその思いが善であることを知ったにもかかわらず、その善い思いを心から好むことをしないで、誠の心にそむいて善い思いを放り出してしまうことがあるとすれば、これは善を悪とするものであって、自分から善を知った良知を曇らせることになるのです。」
(いずれも、『志士の流儀』209~210頁)
----------
他人の前では善いところを見せていても、
見ていないところでは善くないとわかっていることをすることもできます。
しかし、自分の心の中の是非の心はそれを知っています。
その良知の声を無視し続けると、良知が曇る、
つまりその声が聞こえなくなるということです。
若しくは、私欲から出ている声を良知の声と聞き違えます。
良知を発揮するのは苦労が伴うこともあります。
しかし、努力と工夫が必要だから、
必然的に心を鍛えることに繋がります。
心を鍛えれば、大変なことは確実に減るでしょう。
同じことをしても、楽に感じる人とそうでない人がいる訳ですから。
そして、気づいたら同時にやっている、
つまり、良知が自然と発揮されて行動になっている、
知行合一並進という状態になります。
こうした状態を目指して勉強会を続けています。
<つづく>
松下村塾に集まり、松陰の遺文を会読することとしたが、
それとは別に会講日を定めて研究したのが、
『孟子』と『伝習録』だと言われます。
今日は、この2冊の共通点ついて書いてみます。
良知と『孟子』について書いた王陽明の言葉を引用します。
----------
「良知とは、孟子が〈是非の心は人がみな持っているものだ〉というところの〈是非の心〉のことです。この是非の心は、考えなくても知ることができ、学ばなくても自然にできるものであり、だからこそ良知というのです。」
「善い思いが起こったとき、私たちの心の良知はこれを知り、善くない思いが起こったとき、私たちの心の良知はこれを知ります。しかも、それは他人がそのことを知ることができません。私たちの心の中だけのことです。」
「今、善悪を区別して、思い(意)を誠にすることを望むのでしたら、ただこの良知の判断力を発揮するしかないのです。というのも、意念、つまり何らかの思いが生じたとして、私たちの心の良知が、すでにその思いが善であることを知ったにもかかわらず、その善い思いを心から好むことをしないで、誠の心にそむいて善い思いを放り出してしまうことがあるとすれば、これは善を悪とするものであって、自分から善を知った良知を曇らせることになるのです。」
(いずれも、『志士の流儀』209~210頁)
----------
他人の前では善いところを見せていても、
見ていないところでは善くないとわかっていることをすることもできます。
しかし、自分の心の中の是非の心はそれを知っています。
その良知の声を無視し続けると、良知が曇る、
つまりその声が聞こえなくなるということです。
若しくは、私欲から出ている声を良知の声と聞き違えます。
良知を発揮するのは苦労が伴うこともあります。
しかし、努力と工夫が必要だから、
必然的に心を鍛えることに繋がります。
心を鍛えれば、大変なことは確実に減るでしょう。
同じことをしても、楽に感じる人とそうでない人がいる訳ですから。
そして、気づいたら同時にやっている、
つまり、良知が自然と発揮されて行動になっている、
知行合一並進という状態になります。
こうした状態を目指して勉強会を続けています。
<つづく>
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