2015年11月22日日曜日

3 なぜ言語化から逃げて来たのか

『伝習録』の中で印象に残っている話の一つ。
それは『論語』の、ある一説の解釈についての節だ。

<世に没して、その名が称されないのを憎む>

さて、これをどのように解釈するか。

一般的には「生涯が終わってから、名前の唱えられないことを悩みとする」
という風に読むだろう。

しかし、『伝習録』ではそのように解釈しない。

称の字は、去声(きょせい)と読むべきなのです。
〔つまり、<名のかなわないのを憎む>、本人の名声と実質とが一致しないのを憎む、と理解すべきなのです〕
(中略)
<名声が実力以上に高くなることを君子は恥じる>と同じ意味なのです。
(『真説「伝習録』入門』150頁)

実力が無いことを気にしても、世に知られないことなど気にしない。

自己顕示欲があるとこれが逆になる。
言葉にすることから逃げたのは、自分を実力以上に大きく見せようとしていたのだと思う。

自己顕示欲を満たすのではない言葉との向き合い方を模索したいのだ。

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