久々に齋藤孝氏の本を読んだ。
以前は読んでいたが、出版業界のよくあるパターンで、
売れる作家の本は多く出版されるようになるので、
しばらく手にも取らなかった。
しかし、合気道を始めたきっかけのひとつは、
『身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生 』
という著書だったこともあるし、
身体化がテーマの本が多いので共感できる。
今回手に取ったのは、『読書のチカラ』。
本を読む意味や読み方を書いているが、
彼の本に書いてあることは、誰にでも落とし込めて、
(少々努力すれば)習慣化でき、
それにより生き方が変わりそうなところが面白い。
「本を読む意義」は3つあるとして、
第一は、情報を得るための読書、
第二は、一人の時間を楽しく有意義に過ごすための、
頭の中でイマジネーションを膨らませる読書、
第三は、自分を鍛え、精神を豊かにするための読書、
であるとしている。
この「意義」の区分は大事だと思っている。
特に第一と第三がごっちゃになっているのは問題ではないか。
例えば、いい言葉を暗記すれば、良い人間になれるかと言えば、
そういう部分もあるだろうが、自分の経験からすると、そんなことはない。
心を鍛えないと、知識が増えるほど傲慢になる。
『伝習録』の中にこのような文章がある。
「もっぱら涵養につとめるものは、日毎にその足りないところに目がつき、知識をこととするものは、日毎にその増えたところが目につくものだ。だが、日毎に足りないと思うそのところにこそ日毎に増えるものがあるのであり、日毎に増えていると思うそのところに、日毎に足りないものが生じていっているのだ」(117条)
読み方の質を変える読み方をいくつか提案しているが、
「変換読み」というのが面白かった。
(自然にやっていることだろうが。)
この世の事象は、読書に限らず、
y=f(x)の関数式で読み解くと面白いというものだ。
yはアイデア、xは素材、
関数fがあれば、xに何かを入れると、
yが見えてくる。
世界中の先人は独自のfを持っているから、
それを考えながら読書をすること、
さらにはアウトプットすることで、
自分のfを見つけていくことを勧めている。
今の自分にとっては、陽明学やドラッカー的な視点だろうか。
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