2015年11月21日土曜日

2 言葉にすることから逃げなかった人の話

藤屋先生と並んで、ご指導いただいているのが陽明学研究家の林田明大先生だ。

毎月、林田先生を高崎にお招きし、
姚江の会・群馬という勉強会を開催している。

会での勉強を始めて3年半ほど経過した。
最初は、先生のご著書を読んで、レポートを書いて、発表し合うことから始まった。
現在は『伝習録』という王陽明の語録を読み進めており、2年以上経つ。
来年には完読の予定だ。

王陽明のすごさは、もちろん自分の様々な経験を通じて体得した思想なのだが、
非常に言語化しづらい形の無いものを論理的に伝えることに苦心した様も、
『伝習録』を読んでいて本当に素晴らしいと感じる。

門人もなんとか自分の体感することを伝えようと努力し、王陽明に質問する。
このやり取りが非常に魅力的なのだ。

例えば、以下のようなやり取りがある。

弟子「私は、中の字の意味をまだよく理解できておりません」

陽明「これは、自分の心で体認して分かることなのです。言葉で教え示すことはできないのですが…。中とは天理です」

弟子「どんなものが天理なのでしょうか」

陽明「(心の中から)人欲を去れば、天理がどんなものかが分かるでしょう」

以上、『伝習録』上巻より。

形がなく目に見えない心の中の事柄に名前を与えて説明しているのだから、
文中にあるように「言葉で教え示すことはできない」。

心にある「人欲」を自ら認識しないと、人欲を去ることができない。
だから内を観るしかない。

 「教えてあげたくても、自分が体認したと同じ納得感を境地をそっくりそのまま伝えることができないんだ。自分で体認するしかてがないんだよ」
 という、陽明のじれったい思いが伝わってくるようです。
 ですが、陽明は体験主義・経験主義に陥ってはいません。だからこそ、自得したことを言葉でも伝える工夫と努力を、困難なことへのチャレンジを怠らないのです。
(『真説「伝習録」入門』147頁より)

ここでも言葉で伝える工夫と努力から逃げないことの大切さを教えられる。

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