2015年1月21日水曜日

なぜ陽明学の勉強会をやっているのか⑤~良知

ここ数日書かせて頂いているお話は、
林田明大先生の『真説「陽明学」入門』のあとがきに
文章を書かせて頂いたことから始まりました。

今日は、再度、一部引用から入りたいと思います。
(全文はこちらから。)

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『林田先生に直接ご指導いただくようになり、二年半が経過した。…その間に体感できたことを一言で言えば、この一文が最適ではないだろうか。
 「良知を発揮するというこの一句には、全く欠陥がない」(溝口雄三訳『伝習録』下巻、六十二)

 林田先生から最初にご指導いただいたことは、心の動きを観ることだった。自分の中の「良知」の声、内なる声に耳を澄まし、その声なき声を発揮する、言い換えれば素直に従うことを習慣化するまで工夫と努力を続けるという、そのような「心学」の存在をこれまで知らなかったのだ。

良知」は磨けば磨くほど光るもので、そこに完成はない。これからも「良知」を最高の師として学び続けたい。

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「良知」、そして「致良知(良知を致す)」。

陽明学について、語る時には欠かせない言葉です。
良知について、以前書いた記事から引用します。
(全文はこちらから。)

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布団に入って、さあ寝るか、と思ったら、

「あ、そういえば、明日の午前中、会社で会議があるけど、書類を用意していないな。
カバンに入れておけば安心なんだけど。」

と突然思いつく。

そうすると、次に、
「眠いから寝ちゃえ。明日の朝やればいいや」
という声と、
「今やらないで、明日忘れたらどうするんだ」
という声がして、板挟みになって葛藤が始まる。

このような天使と悪魔が頭の周りをグルグル回るような経験は誰にでもあるだろう。

さらに言えば、すぐにやって良かったということもあれば、
明日の朝やろうと思って忘れて大変なことになったということもあるだろう。
(当然、私もある。つい先日もあった。)

こうしたことは、思いつこうと思って思いついたのではなく、
体の内部から突如として湧き上がってくる。

陽明学では、この声の主を「良知」という。

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 「人の胸中には、それぞれ聖人が宿っています。しかし、ただ自分を信じきれないばかりに、みな自分でそれを葬ってしまっているのです。」(中略)
 「これまでの儒教の教えでは、聖人は人々の外部に存在していた。それも到底近づけそうもないはるか高みに存在していた。ところが陽明学では、聖人がすべての人々の内部に存在しているというのである。」(中略)
 「陽明学の思想の最大の魅力は、心にある崇高な価値の宿り、聖人の宿りを認めるところにあった。」
(『真説「陽明学」入門』109~110頁)

自分の中の聖人を発揮しようと努力と工夫を重ねることで、
迷いがなくなって来たことを感じるし、
もしそうでない時は、その聖人が教えてくれるようになって来た気がします。

<つづく>

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