実は『大不況には本を読む』にも、同様の話が書いてあった。
「行間を読む」という言葉があります。文章と文章の間にある「何も書かれていない行間」です。本を読む上で一番重要なのが、この「行間を読む」です。「何も書かれていない部分がどうして読めるのだ」と、文句を言う人なら言うでしょうが、しかし「本を読む」で一番重要なのは、そのことなのです。(中略)
それこそ二十世紀は「理論の時代」でした。と同時に、二十世紀は「大衆の時代」でもあります。(中略)理論を売る出版も、また「大衆相手の商売」だったからです。(中略)書かれた文字をたどって行けば、すぐ「分かった!」の正解にたどりつける。それは「理論のマニュアル化」であり、「本のファーストフード化」です。(217~218頁)
では、書かれていないことを探すためにどんな本を読んだらいいか。
時代というものは、「重要なもの」を平気で埋もれさせて行きます。「自分の生きて来た”壁にぶつかってしまった現在”は、そういう重要なものを埋もれさせて来たんだ」と考えることが、今の時代に必要な「過去を振り返る」です。(230頁)
「本を読む」という行為は、その膨大なるゴミの山の一角に入って、「自分が分担できる片付け」を実行するというほどのものです―それが実のところは「自分のあり方を探す」なのです。(234頁)
現実はもう「一人の人間の手に負えるもの」ではないのです。だから、みんな手分けするしかない―「問題はどこにあったんだ?」をみんなで手分けして考える。そういうことをしない限りは、「この先」という方向を考えるための基盤は出来上がりません。それなくしての、なんの「未来」か。(235頁)
今、『伝習録』を数年かけてじっくり読んでいる。
150年より前の時代には読まれていた本だ。
『孟子』や『大学』も然り。
発見がたくさんあった。
歴史を乗り越えて来た本の行間から自分のあり方を探し、未来をつくる。
そんな読書を続けていきたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿