2015年9月7日月曜日

狂③

 「聖人」という言葉は、今の我々には、自分と遠くはなれた存在という印象が強い。(中略)だから、聖人を志すことなど、嘲笑されるのがおちである。実は王陽明の当時もそうだった。
 聖人を志した王陽明たちも冷笑された。冷笑したのは、世俗的な名利物欲を追い求めることに熱中する俗学の徒である。彼らはいつでもどこでも多数派である。
 孔子は、理想の追求者を「狂」といった。荘子は、本来あるべき人間の姿を「畸人」(奇人)とのべた。狂・奇の人こそ、実は人々に要請された望ましい生き方であったのである。聖人の道とはこの狂・奇としての生き方であった。人間と禽獣との差異は紙一重だと述べたのは孟子であるが、この紙一重の差にふみとどまって、真に人間として、悪(禽獣であること)から救われてある生き方を求めること、それが聖人の道である。(中略)
 王陽明が後年、ごうごうたる非難をあびるなかで、狂者の気概に居直る発言を公然と表明したのは、真に人間的でありたかった故である。聖人とは決して我々から遠い存在なのではなく、我々に直接する言葉なのである。

(『陽明学からのメッセージ』吉田公平、7~8頁)

放送中の大河ドラマ「花燃ゆ」の中でも、
時々「狂う」という言葉が出て来るが、
このような解説があって意味が分かる。

そうでないと感情の赴くままに行動するのを良しとすることになる。
しかし、「狂」とは「理想の追求者」なのだ。

「狂」は一生追求するべきものだが、
「青年」と名乗れるうちに「狂」を知ることは大事だと考え、
そのような話をさせて頂いた。

自分の心と向き合い、流されずに良知を信じ、
発揮することを心がけたい。

追伸
先ほど引用させて頂いた本の著者である吉田公平先生の講演会を、
9月26日(土)14時から、群馬県安中市の磯部ガーデンで開催します。
詳細は、こちらをご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/akio_hayashida/archives/1673034.html

2015年9月6日日曜日

狂②

富岡青年会議所様の理事セミナーにて、
「おわりに」の部分で、陽明学の話をさせて頂いた。

伝えたかったのは、個イコール組織ということだ。

修己治人、即ち、
自らを高めることと自然と人を感化することはひとつであるということ。

事上磨錬、即ち、
日常生活の中で約束を守るとか仕事とJCを分けないとか、
自分を鍛える場面は多々あるということ。

そういったことを疎かにして、「明るい豊かな社会」はないのではないか。
そのようにな疑問を提起して終わりにした。

最後に、懇親会にて、
もう一つ紹介したのは、
「狂」という言葉だ。

(つづく)

2015年9月5日土曜日

狂①

先日、一般社団法人富岡青年会議所様にて、理事セミナーの講師を務めさせて頂いた。
頂いたテーマは、「組織論から考えるJC経営」。

小松理事長には、何度か私の主宰する社長塾にご参加いただいたこともあり、
組織とはどういうものなのか、理事の方々に「理論的」に話してほしいという依頼を受けた。

なぜ私にお鉢が回って来たかというと、そうでない話をする方が多いからだろう。
武勇伝とか経験論とか。(これも大事ではある。)

我々は凡人だし、誰もがJC活動に多くの時間は割けない。
それでも成果をあげるにはどうしたら良いか。
時には基本に戻ることも必要だ。

ということで、個でなく組織として成果をあげることについて、
ドラッカーの『非営利組織の経営』をベースにお話しさせて頂いた。

JCを卒業させて頂き5年ほど。
不良会員だった私にこのようなお役を頂き心苦しいが、
「理論」を偉大な先人の言葉として伝えさせて頂いても罰は当たらないと思い、
受けさせて頂いた。

教師が教壇から伝えなければいけないことは、ただ一つです。
「私には師がいます。私がみなさんに伝えることは、私が師から伝えていただいたことの一部分にすぎません。
師は私がいま蔵している知識の何倍、何十倍もの知識を蔵していました。
私はそこから私が貧しい器で掬い取ったわずかばかりの知識をみなさんに伝えるためにここにいるのです。」

いつも人前でお話しさせて頂くときは、以前何かの本で読ませて頂いた、
内田樹さんのこの言葉を思い出す。

これならできる、いや、これしかできないのだ。

セミナーの本論が終わって、「おわりに」の部分で話させて頂いたのは、
陽明学の話だ。

(つづく)

2015年9月4日金曜日

「書かれたこと」を読んで「書かれていないこと」を考える ③

実は『大不況には本を読む』にも、同様の話が書いてあった。

 「行間を読む」という言葉があります。文章と文章の間にある「何も書かれていない行間」です。本を読む上で一番重要なのが、この「行間を読む」です。「何も書かれていない部分がどうして読めるのだ」と、文句を言う人なら言うでしょうが、しかし「本を読む」で一番重要なのは、そのことなのです。(中略)
 それこそ二十世紀は「理論の時代」でした。と同時に、二十世紀は「大衆の時代」でもあります。(中略)理論を売る出版も、また「大衆相手の商売」だったからです。(中略)書かれた文字をたどって行けば、すぐ「分かった!」の正解にたどりつける。それは「理論のマニュアル化」であり、「本のファーストフード化」です。(217~218頁)

では、書かれていないことを探すためにどんな本を読んだらいいか。

 時代というものは、「重要なもの」を平気で埋もれさせて行きます。「自分の生きて来た”壁にぶつかってしまった現在”は、そういう重要なものを埋もれさせて来たんだ」と考えることが、今の時代に必要な「過去を振り返る」です。(230頁)

 「本を読む」という行為は、その膨大なるゴミの山の一角に入って、「自分が分担できる片付け」を実行するというほどのものです―それが実のところは「自分のあり方を探す」なのです。(234頁)

 現実はもう「一人の人間の手に負えるもの」ではないのです。だから、みんな手分けするしかない―「問題はどこにあったんだ?」をみんなで手分けして考える。そういうことをしない限りは、「この先」という方向を考えるための基盤は出来上がりません。それなくしての、なんの「未来」か。(235頁)

今、『伝習録』を数年かけてじっくり読んでいる。
150年より前の時代には読まれていた本だ。
『孟子』や『大学』も然り。

発見がたくさんあった。

歴史を乗り越えて来た本の行間から自分のあり方を探し、未来をつくる。
そんな読書を続けていきたい。

2015年9月3日木曜日

「書かれたこと」を読んで「書かれていないこと」を考える ②

『「読み」の整理学』の中で、外山滋比古さんは、
読書には、アルファー読みとベーター読みがあると言う。

単純に言うと、「既知」を読むのがアルファー読み、
「未知」を読むのがベーター読みである。
当然のことながら、読み方は異なる。

この本の中にこのような話が書いてあった。(要約)

近代において、アルファー読みとベーター読みの両極をはっきりさせておく必要が大きくなっている。
かつて本が少なかった時代は、妙な本も少なく、ものを読むと言えば、たいていはベーター読みを想定していた。

ところが、印刷出版文化が発達し、教育が普及し、アルファー読者が多くなった。

こういう読者は昔ながらの古典的書物が読めないが、自分はものを読めると思っているため、アルファー読みでも消化できるような読み物は社会の要求になった。

商売がそれを放っておくはずなく、いわゆるマスコミ文化の中、そういう出版物ばかりになる。

こういう状況だから、ベーター読みをあえて考える必要がある。

(「読みの問題」108~109頁)

一言で「読書」と言うと、すべて同じような行為に見えてしまうが、
アルファー読みとベーター読み、知識のための読書と心を鍛える読書、
実利的な読書と目的を持たない読書、などなど、
本との向き合い方で意味は異なる。

放っておくと、アルファー読みや合目的的な本を読むことが「読書」となってしまう気がする。
改めて、本を読むこと、そして、学ぶことについて考えてみたい。

2015年9月2日水曜日

「書かれたこと」を読んで「書かれていないこと」を考える①

さて、今日からブログを再開してみようと思う。

先日、橋本治さんの『大不況には本を読む』という本を読んだ。
数年前に読んだものだが、なんとなく気になって、
積まれていた本の中から、再び手に取って読んでみた。

産業革命から世界の経済発展、
日本の高度経済成長、それがぶつかった壁。

そんな今、我々は何を学び、考えるべきか。

面白くて一気に読み終えた。終章の畳みかける感じは秀逸だった。

その中で、「本を読む」ことについて、このように書いてあった。

「本を読む」ということは、「書き手の言うことをそのまま受け入れて従う」ことではありません。「書かれていること」を読んで、「そこに書かれていないことを考える」というのが、「本を読む」です。「そこに書かれていないことを考える」が「行間を読む」であるのは、言うまでもありません。

なぜ本に「書かれていないこと」が存在するのかと言えば、「本の書き手の視点」が、「その本の読み手の視点」と必ずしも一致しないからです。

もう一つ、本には「書かれていないこと」が存在する理由があります。それは、本の多くが「過去のこと」を語っていて、「それでどうなんだ?」という「現在から先のこと」を考えるのが読み手の担当だという、「仕組みになっている」からです。

「なんでそういう仕組みになっているのか?」というのは、「愚問」です。そうでなければ、「本を読む」ことに意味がなくなるからです。「読み手にものを考えさせてくれる」というのが本で、それがいやな人は「命令書」を読んで、「ふん、ふん」とその指示通りにしていればいいのです。

(「『書かれたこと』を読んで『書かれていないこと』を考える」220~221頁)

誰もが知っていることを文章化しただけかもしれない。
しかし、これを文章で見たことが衝撃だった。